2006年08月30日

(レシピ)冷や鳥

簡単しかも美味しい!!
時間がかかるのがちょいと難ですが、
冷蔵庫で保存が利くので便利メニューです。
えーこれだけ??っていうシンプルな味付けですが、
素朴な鳥の美味しさがギューっと楽しめるのです。

とりモモ肉(一枚)
葱(三、四本)
生姜
日本酒

1.1リットルくらいの水を沸騰させます。
2.モモ肉、ぶつ切りした葱、平たく切った生姜を入れます。
3.塩大さじ一杯、日本酒大さじ一杯入れます。
4.10分強中火で煮ます。
5.モモ肉を取り出して水にさらします。
6.煮汁が冷めたら固まった油を掬い、モモ肉をもどして3時間ほど冷蔵庫で冷やします。
7.お好みでラー油、七味などをかけてできあがり。

※煮汁に漬け込む時間で味が変わります。
※トマトの輪切りと一緒に食べるとグーです。
※煮汁はスープになります。もやしいれて、胡椒で味付け。
※煮汁で米を焚いても美味しいです。
posted by タマ at 21:17| 京都 ☁| Comment(83) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月29日

境界音楽

春にアジアの外周を周ろうという想いで、シベリア鉄道〜東欧〜エーゲ海〜トルコと陸路で旅をしていたのですが、その折に乱買いしたCDを今更ながら聞き込み始めました。

聞きながら感じることは、欧州とアジアの境界の音楽に何かしらの共通の感覚。ロシア正教の男性和声の響きとイスラム神秘主義のタクシーム(即興演奏)には何かしら同じ方向で、欧州文化圏の宗教音楽との差異が嗅ぎ取れる気がするのですね。

私は別に欧州の宗教音楽にとりわけ詳しいわけでもないので、単に直感的なものに過ぎないのですが、パレストリーナ(ルネサンス期のローマの作曲家)のミサ曲と比して考えても、やはりそのような気がします。より瞑想的な印象というか、大陸的?東洋的?色々言葉は浮かぶけどどれもしっくりと表現できていないもどかしさ。

イスラム神秘主義で用いられるネイという日本の尺八と似た構造で音が出る楽器があります。以前京都の雪景色を見ながらネイのCDをかけたのですが、瓦屋根に雪が積もる景色と存外に合うことに驚きました。虚無僧とイスラム神秘主義の精神性の類似点を指摘する論もあるようですね。音楽を通して改めて漠然とながら文化性の境界の存在に想いを馳せています。印度・中国という巨大な隔たりを置いて日本とイランの精神性を並べる乱暴さは否めませんが。
posted by タマ at 23:04| 京都 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月28日

暦と建築1

厳島神社に行ってきました。

厳島神社といえば海面に浮かぶように見える社殿で有名ですが、いつでもそのように見えるわけではありません。水面が回廊すれすれまで上がってくるのは、大潮の数日間、満潮の時刻だけです。こうした時期の持つ特殊性は、祭祀の日には更に際立ちます。

厳島神社の管絃祭は旧暦の6月17日に行われます。旧暦は月齢による暦ですから、当然潮汐も反映します。十五夜を僅かに過ぎた17日は、瀬戸内海では潮位がもっとも大きくなる時期です。高潮間隔(月の影響が潮に影響する時間差)がおよそ9時間半の宮島では、17日のちょうど十二時前に満潮を迎えます。同時に月の出は八時ごろ、形はほぼ満月。
(瀬戸内海は内海なので、潮位や満潮時刻はかなり遅れます。更に大潮の海面差も2.8mと日本では最大級となります。)

管絃祭は日没前に出航した船が、篝火を焚いて管絃を鳴らしながら海を巡行します。本殿に還御するクライマックスではまさしく、月の明かりに照らし出された社殿が満潮の水面に浮かんでいるという幻想的な瞬間が出来上がるのです。

かような話もありまして、暦に視座を置いて空間を考えてみることは、最近面白いと考えている課題です。また数回にわたって綴っていこうと思うのでよろしければお付き合いください。
posted by タマ at 22:07| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

身体と音楽4

キリスト教の教会から道教の混沌へと話を進めてきたところで、東洋と西洋の感覚に対する捉え方の違いについて。

無印良品のデザインを手がけている原研也氏の著書「デザインのデザイン」からの引用です。西洋の考え方ではすべての感覚を司るものが脳であるとし、脳に感覚を統合させる。東洋の考え方では、目、耳、鼻、舌はもとより頭の先からつま先まで体のあらゆる部位に脳があり、それぞれが感覚を持っている。

うろ覚えですがこのような旨のことが書かれていました。もちろん、これらの考え方も一つの思考の枠組みで、どちらが正しいといった類のものではないのですが。

しかし、そういわれてみれば納得できる部分もあります。建築で考えても、西洋では天井が崩落しようが、完成まで数世紀かかろうが、絶対的な空間を追求する。一方で日本では床・柱・天井と、各部分の素材に拘り、小空間を洗練させていく。さらに音や光といった空間要素だけではなく、その中での人間の姿勢や立ち振る舞にも言及する。

少し音楽の話から脱線してきました。それでは「つま先の脳が感じる音楽的な快楽とはなんぞや」と禅問答のような問いかけをしてみます。

この問いに対する私なりの答えは「時間の流れを心地よく感じさせられる変化、もしくは持続」。これまたよくわからない返答ですけど、例えば、夏の日に素足で寺社の木目の浮いた冷たい廊下を歩くときを想像してみてください。

木の肌理の凹凸、僅かに板が撓む動き、廊下の軋む音(振動)・・・。そうした感覚は意識せずとも快楽として伝わってきますよね。同時に肌は日陰に流れる涼しい空気を、耳は葉と葉の擦れる音を、頭皮は頭髪による風の愛撫を感じ取っています。これら全部の快楽を満たしてやりたい、という願望は一つの面白い考え方ですね。
posted by タマ at 20:48| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

肉と骨

身体感覚と音楽をまとめるのにちょっと疲れてきたので、軽く脱線します。

私たちが自分の身体を考えるときに、肉と骨と二元的に考えることがあります。この二分は結構面白くて、肉は生の隠喩、骨は死の隠喩となります。たとえば西洋の死神は骸骨の絵で描かれます。

一方で肉はしばしば生命や、生の喜びの象徴となります。ラテン語で肉はcarne。カーニバルはこのcarne由来の言葉で、謝肉祭。東南アジアに見られる風習「洗骨」は英語圏ではdecarnationと呼ばれています。肉を捨てる。

洗骨というのは死者の体から肉を洗い落とす儀礼のこと。沖縄も洗骨が行われていた(ごく最近まで一部の地域では残っていた)地域です。遺体を風化するまで棺に入れておき、後に肉を海で洗い落として骨のみを墓に再度埋葬します。こちらでもやはり肉が生の象徴となっている。

マイミクシイsivad氏の日記で、身体性よりも肉感と表現したほうが直接の快楽はよく表せるという旨の記述になるほどと思ったので、少し思ったことをしたためてみました。このあたりは今後の課題。より突っ込んで調べていきたいことですね。結論のない文です。すみません。
posted by タマ at 20:43| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月13日

今日は

何も考えずにひたすら読書。
そんな日も必要ですよ。
posted by タマ at 20:47| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月12日

靖国神社について

個人的な想いとしては、かような土着的で原始的な信仰に対して、粛々と儀礼と礼拝が行われている生々しさに敬意を示したいです。

それが国民の幸せにつながるかどうかの、行政の視点とはまた別の次元での話ですが。総理大臣の参拝云々の話は所詮、一時代の趨勢を示すだけのこと。好い様にすれば宜しいと思います。

しかし、別の国立追悼施設を作ることには反対です。中には二度と悲劇を繰り返さないように、などと言っている人もいる様子ですが、では次に悲劇が起こってしまったときはどうするのですか。隣にもう一つ新しい施設を作るのですか。

屁理屈に聞こえるかもしれませんが、施設に悲劇を防ぐ神通力がある訳がない。あえて言うならば、悲劇が起こるまでの間には悲劇が起こらなかったというジンクスは生じるでしょうが。

逆も然りで、ある施設があるから悲劇を招く訳ではない。そう見えたとしたら、悲劇が起こりそうな機運が偶々その施設を依代にしただけの話。天安門広場があったから天安門事件が起こった訳ではないのです。

建物や施設自体には何の力もありません。利用している人間の想いの集合として象徴化しているだけです。靖国神社自体も多分に政治的意図があって設立された神社ですが、現在のような捉えられ方をするようになるとは、当然ながら設立当時では考えられなかったことです。

代替物として施設を作り、人々の意識をそちらに向けるなどという卑しい考え方で追悼できるのは、使った税金くらいのものでしょうね。
posted by タマ at 20:18| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体感覚と音楽3

道教の混沌のお話から。

南海の帝を儵といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を混沌といった。儵と忽とはときどき混沌の土地で出会ったが、混沌はとても手厚く彼らをもてなした。儵と忽とはその混沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれでも七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この混沌だけがそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと混沌は死んでしまった。『荘子(内編 応帝王編 第七)』(岩波文庫)

先日の日記のコメント欄にも書きましたが、「五感とは独立した別々のモノだ」という誤謬があります。例えば、実際は味覚と触覚は一部で重なっていますよね。温度とか舌触りとか。つまり人体のなかで凸凹している敏感な部分を、言語でものを考えるときに解りやすく幾つかの感覚器(目、耳、舌、肌、鼻)としてまとめた。そのうえで抽象的な概念である感覚を、感覚器ごとに分野分けして捉えたものが五感ではないかと私は考えています。

ちなみに、儵も忽も迅速を意味する言葉のようです。すでにある枠組みで物事を捉えようとするのは手軽で手早いですけど、混沌=未分化の総合体は捉えることが出来なくなってしまう。

音楽体験・映像体験・空間体験などいうのは、単なる一つの思考規範です。そのような枠組みは言葉としてで作った観念であって、本質的にはその領域は曖昧です。ですから音楽体験に聴覚以外の感覚が作用してくるのは当然だと思います。例えそれが音だけの体験であっても。

そのあたりの感覚が直に掴みたくて、以前「未来美術館」というインスタレーションを行いました。といっても仕組みは単純で、モチーフや出自などに共通項のある音楽と美術を同時に提示する、というだけのものです。美術というのは正確にはプロジェクターで投影した映像ですね。具体的には、共に印象派で水をモチーフにした、ドビュッシーの「水の反映」とモネの「睡蓮」や、アイスランド出身の歌姫ビョークの「HUNTER」と北欧出土の「先史時代にトナカイの骨に彫られた野牛」といった組み合わせです。共通項があることで最初はなるほどと思って双方の作品を楽しんでいるうちに、徐々に自分が得ている悦楽は音楽からなのか美術からなのか、その境界が曖昧になってきます。そんな大人の中に混じって口をぽかんと開けて食い入るようにスクリーンを見つめる幼児の姿がとても印象的でした。

このインスタレーションにはもう一つ特徴があって、スクリーン以外は全方向真っ白なドームの中で行いました。床も壁も天井も。床は柔らかく、色々な姿勢をとることが出来ます。未分化の総合体としての感覚を可能なだけ網羅できるような空間が理想です。
posted by タマ at 01:38| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(12) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

モンスーン

季節風。アラビア語由来です。身近な観念なのにとてもエキゾチックな響きがする言葉。異国の概念を濾過して初めて見えるようになった自然の捉え方。
posted by タマ at 01:04| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

身体経験と音楽2

曲から喚起されるイメージの中の要素に視覚が入ると途端、溜息の出るような音楽体験となる瞬間があります。

先日の日記でオスマントルコの軍楽の話に触れましたが、勇壮な軍隊が中東風の衣装に身を包み、欧州の軍勢を圧倒する光景を曖昧ながらに感じながら聞くと、その異国情緒や現代と異なる世界観が相まって、なかなかに格好良いのです。予備知識なしで聞くと恐らく少しイナタイ曲だと思いますが。

それは自分で意識してその光景を想像するといったことではなく、どこかで何かを見た体験が無意識的に聞く音楽に彩を与えている、といったイメージです。実際に見た光景に限らず、文章やその他の経験から出てくる、所謂既視感が音楽に対する感性を豊かにしてくれている側面があり、またそうした要素の大きな分野の音楽があると感じています。

具体的な経験では、以前マリインスキー劇場に「くるみ割り人形」を見に行ったことがあるのですが、その前後で明らかにバレエ音楽に対する感じ方が変化している。それは、バレエ音楽を聴くとバレリーナが踊っている光景が目に浮かぶというような具体的なことではなく、その眼福、視覚から得られた恍惚が音楽体験によって引き出されている感覚です。

少し建築の話に触れますと、宗教建築と宗教音楽の関係には多少なりこの要素が絡んでいると思っています。例えばキリスト教の教会は煌びやかなステンドグラスや彫刻で飾られ、訪れる人に至福の空間経験を与えてくれます。同時に聖歌隊の賛美歌が耳にされるでしょう。この空間体験は経験として刻み込まれます。

建築はその場以外では再現することができませんが、歌はそれぞれの体で再生することが出来ます。各々のキリスト教徒が賛美歌を歌うことで神との一体感を感じることが出来るのは、えばこうした空間体験、あるいはそれに限らず何らかの至福の体験と歌が結びついているのではないでしょうか。
posted by タマ at 01:54| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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